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ひな街道を歩く

由利本荘ひな街道』の舞台となる秋田県由利本荘市は、秋田県と山形県の境となっている霊峰鳥海山の北側に広がっています。
江戸時代の初め、現在の由利本荘市一帯は、最上氏57万石の所領でしたが、元和8(1622)年の最上氏改易に伴い、元和9(1623)年に六郷氏、岩城氏が入部して本荘藩、亀田藩が誕生しました。
それから、しばらく後の寛永17(1640)年に四国高松17万石の藩主生駒高俊がお家騒動(生駒騒動)の責を受け、矢島へ移されました。
これら本荘藩、亀田藩、矢島藩の3つの小藩が置かれた本荘・亀田・矢島の各地域には、城下町がそれぞれ発展し、現在もその街並みに名残りがうかがえます。

 現在の由利本荘市を流れる子吉川の河口付近には、
当時、本荘藩の古雪湊と対岸の亀田藩の石脇湊が北前船が寄港する河口港として栄えており、近くは酒田、遠くは上方とも交易し、おひな様をはじめ、様々な物資と人が行き交っていました。
そのため、藩主にゆかりのあるおひな様をはじめ、当時の武家、商家に伝えられた享保雛、古今雛、芥子雛などが今も数多く残されています。

これらのおひな様の企画展示を行う岩城・大内・本荘・矢島の各資料館を結ぶと直線距離にして約45kmのルートとなります。このルートは矢島をさらに越えて山形に通じる街道でもあり、江戸時代の初め、最上家の重臣・本城満茂が今の亀田城あたりに城を構えた頃から、山形への連絡通路として重要な街道でした。

旧藩のおひな様を巡る旅を街道にたとえた『由利本荘ひな街道』。
春の足音が聞こえるこの季節、ゆったりのんびりした雰囲気の中で、この街道を旅してみてください。

由利本荘ひな街道で見ることのできるおひな様は、江戸時代中期以降のものになります。
江戸時代中期以降に流行した主な種類の雛をご紹介します。

享保雛

江戸時代中期の享保年間(1716~1736)に現れ、江戸時代末期まで流行し、町家など庶民にも普及した雛です。
大型のものが作られ(右の写真の雛は高さ約50cm)、目元や口元は、小刀で顔の胡粉を削り取る「さらえ」という技法が使われ、能面のような顔立ちと金襴や綿を使った豪華な衣装も享保雛の特徴です。
また、この頃は、現代のような段飾りではなく、台に毛氈を敷き、雛人形の前にお供え物を並べました。
なお、「享保雛」の名称は明治時代につけられたもので、享保期の製作・販売に限らず、この形式を「享保雛」と呼んでいます。

芥子雛

江戸幕府のぜいたく禁止令により、大型雛の製作が禁止されました。そのため、江戸時代中期以後、極小の雛人形雛道具が作られました。それが大型雛と比べると芥子粒のようだ(約3cm)ということから、芥子雛、芥子細工と呼ばれました。

古今雛(江戸製)

江戸時代後半の明和年間(1764~1771)の頃、日本橋の原舟月(はらしゅうげつ)によって考案された町雛です。
従来の雛の衣装を一層華やかにして、金糸・色糸で縫い取りをほどこして仕上げられています。容貌も写実的で眼にガラスや水晶などをはめ込み、精巧に作られました。
(右の写真のは高さ約30cm)
古今雛」の名称は、古式の雛と現代の雛の要素を折衷させて作ったことによります。
明治時代以降は古今雛が流行し、現代雛の原型となりました。

古今雛(京都製)

京都製の古今雛は、衣装から見ると古今雛なのですが、目が墨書きで享保雛の特徴をあわせもっています。
このタイプのおひな様は、本荘・武田家のほか、酒田の本間家や新潟の村上でも見られるそうです。
江戸製の古今雛とは趣が異なりますので、見比べてみてください。

資料館・美術館合同企画展
令和6年2月10日(土)~ 4月3日(水)

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